2. 誕生までの歩み・前編

半導体

1975年4月に丸紅株式会社に入社して電子機器部半導体製造装置課の配属となりました。そして10年目にシンガポールに出向し、Managing Directorとして新川のボンディング装置やTOWAのモールディング装置の輸出販売を取り扱う会社の経営に携わっていました。当時、東南アジアは労働集約型市場であり、高額な自動装置の販売は困難とされていましたが、後工程もクリーンルーム内に組み込まれていくようになり、自動装置の需要と販売は順調に伸びていき、安定した経営実績を残すことができました。

経営再建

その後、日本に戻って電子機器部課長として、アップルやコンパック製品を取り扱います。まさにPCの勃興期であり、丸紅は大手量販店ソフマップへ資本参加します。この企画総責任者であったこともあり、1997年12月に副社長として出向を命ぜられました。ところが、資本参加の事前交渉に明かされなかった会社の実態が次々に明らかになり、正直、やられた!と思いました(笑)。
当時の取引銀行は16行あり、順次就任の挨拶廻りに伺うと、いきなり借入金の返済を迫られました(笑)。経営再建には創業者個人の経営から企業への変革と、コンプライアンスの徹底が必要と判断し、株式上場を目標に定めて経営計画を纏め上げ、金融機関の理解と協力を取り付けていきました。語り尽くせぬ程の問題が多々ありましたが、ひとつずつ解決していき、お蔭様で2000年に東証上場を果たすことができました。

ベンチャー

ソフマップから丸紅に戻るとITプロダクト事業部長兼メディカル事業部長としてPC関連機器及び最先端医療機器の輸入販売等に関わります。特に医療機器は技術革新が激しく、海外のベンチャーがその中心的役割を担っていました。優れた医療機器の販売権をいち早く確保するためには優れたベンチャー企業を見出して、場合によっては資本参加を推し進めていくことも必要であります。この頃、数多くのベンチャー企業を目利きすることが多く、BSやPLといった過去に囚われることなく、いかにして企業の将来性を目利きすべきかについて学びました。サイバーナイフのアキュレイ社や、医療ロボットダヴィンチのインテュイディヴ・サージカル社を見出し、丸紅が出資したことは自身が大きく関与して決定したことであり、良い仕事ができたと誇りに感じています。

IPO

やがてIT部門の部門長補佐として、メディアや通信会社を中心に10社の社外取締役も務めさせて頂きました。そして丸紅インフォテック株式会社をはじめ合計4度のIPOを経験し、いずれも陣頭指揮をとりました。
振り返ると丸紅在籍時は新しいことに積極的に挑戦し、成功も失敗もいろいろとあるなか、充実した生活を送ることができたと思います。

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